タッカーの一人道

僕、タッカーが思ったことをそのまま書き連ねるブログです。

借りものの知識に価値はない。

僕達は、常に「誰かの言葉」で、他人と会話しています。

 

どういうことか?

 

 

僕達は生まれた時から言葉が使えた訳ではありません。

周りの大人達の言葉を聞いて、僕達は言葉が使えるようになりました。

 

僕達ひとりひとりが言葉を生み出した訳ではありません。

 まぁ、これが弊害を生むことにもなるのですが。

今回は、その弊害とも言える事について書こうと思います。

 

 

 

 

 

さて、この記事は、「知識自体に価値はない」という題名ですが、

ここで言う「知識」とは、

自分の実体験が伴っていない、誰かの言葉です。

 

逆に、自分の実体験が伴った誰かの言葉は、

「知恵」と呼ばれます。

 

僕が大事だと思うのはもちろん知恵です。

 

知識そのものに価値はなくて、知識に実体験を掛け合せることで、知識は知恵になり、

価値が生まれます。

 

 

知識自体は世の中に溢れかえっています。

 

今の時代に大切なのは、ただの知識ではなくて、自分の実体験をベースにした知識、つまり知恵です。

 

 

知識を蓄えるだけじゃなくて、実際に行動して、知識を知恵に昇華させることが大事です。

 

知識だけだったら誰でも持っている時代ですから。

考え続けないと、ただのロボットになっちゃうよ

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言われたことをこなすだけの人はロボットと変わりません。

 

 

本の学校では、与えられたもの、与えられた指示を、どれだけ高い精度で出来るのかが重視されています。

 

期末試験、部活動が代表例です。

期末試験では、与えられた問題の中で、どれだけ高い点数を取れるか。

部活動では、先生からの指示を、どれだけ高い精度で出来るか。

 

先生の意見と違う事を言うと怒られて、矯正させられてしまいます。

 そこでは、自分の頭を使う必要がありません。

というか、頭を使わない方がいい。

言うことを聞いていれば、角が立たないから。

 

だからですかね。

自分の頭で考えるのを辞める人が多い。

 

学校教育の弊害といえると思いますが、

上の人の言うことをきちんと聞いとけば大丈夫。という考えの「ロボット型人間」は結構な数存在すると思います。

 

 

 

ですが。

 

そのような人間に価値があるのでしょうか。

 

かなりきつい言葉になってしまいました。

 

もちろん、道徳的な観点から見れば、価値のない人間などいません。

 

ですが、社会を生きていくに当たって、「ロボット型人間」の価値はどれくらいあるんでしょう。

ほとんどゼロではないですかね。

科学技術が発達して、ホンモノのロボットが普及し始めることもありますし、

そもそも、「ロボット型人間」は、大量に存在します。

代替可能ということです。

至るところに存在する物に、高い価値は付きません。

資本主義の基本です。

 

 

ですから、「ロボット型人間」にならないことが、これからの時代は重要になってくると思います。

 

ではどうすればいいか。

 

常に自分の頭を使って考え続けることです

 

  • この勉強は本当にしなくてはならないものなのか。
  • 逆にしなければいけないものは何なのか。

 

  • この指示はこの状況では適切か。
  • 適切でないなら、何をすべきか。

 

                                                         などなど。

 

 

とにかく、考え続けること。

 

重要です。

 

 

ちなみに僕は、学校のいつ使うかもわからない勉強よりも、

お金など、現実世界で必ず必要になることを勉強すべきだと思っています。

 

 

お金の大事な話~「稼ぐX貯まるX増える」のヒミツ~

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十人十色って忘れられがちだよね

人はひとりひとり違う。

この言葉ほど当たり前のように思われて、しかし忘れられがちな言葉は無いのではないでしょうか。

 

僕達は気づけばいつも、僕達自身の価値観で他人を評価しています。

「この人、声デケーな。もう少しボリューム下げろよ。」

とか、

「なぜ、あいつはこんなこともできないのか」

とか。

 

これらは、「人はひとりひとり違う」ということを忘れた時の言葉です。

 

人は誰でも、自分は普通だと思っています。

 

だから、自分とは違う人間を批判してしまうんです。

 

そうではなくて、違いを認める。

「違い」とは、「個性」です。

その人の個性を見極めて、認めてあげる。

 

そうすれば、誰も窮屈な思いをせずに済むのではないでしょうか。

 

「十人十色」。忘れないでください。

 

以上、窮屈な思いをしている、僕からでした。

 

誰かを幸せにしたいっ!って人へ

自分以外の誰かを幸せにしたいと言う人へ

まず、何をすべきかわかりますか?

 

答えは、「自分が幸せになる」ことです。

 

「???」って人も多いと思います。

ですが、これが一番大事なことなんです。

 

人って、自分が幸せに感じていないときには、他人を幸せにすることができないんです。

これは、僕の実体験からも確かなことです。

嫌な気分になっているときは、どうしても自分にばかり意識がいきます。

 

そのせいで、周りに意識が行きずらい。

そうなってしまうと、自分以外の誰かを幸せにはできません。

 

 

だから、まずは自分が幸せになる。

そうすれば、自分のことばかりに目を向けることがなくなりますし、視野が広くなります。

よって、人助けなどの他者貢献がしやすくなるんですよね。

 

「誰でもこの瞬間から幸せになれます。」

怪しげな宗教セミナーの勧誘文句みたいですが、これは、ベストセラー「嫌われる勇気」のキャッチコピーです。

 

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

僕はこの本を読んで、世界の見方が変わり、少しずつ幸せを感じることができるようになりました。

おすすめです。

 

誰かを幸せにしたい!と感じている方は、まず、自分を幸せにしてあげましょう。

 

毎日が退屈だと感じている人へ

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毎日を漠然と生きている人は多いと思います。

特にやりたいこともなく、身の回りで面白いことが起きないか待っている。

僕の周りにも結構います。

その人たちに共通しているのは、常に受け身で楽しんでいることが挙げられます。

楽しさを作り出すのではなく、作られた楽しさをただ受け取っている。

 

飲み会を主宰するのではなく、飲み会に誘われるのを待っている。

お金を払って、ボーリングやカラオケを利用する。

 

これらは作られた楽しさを受け取っている例です。

決して上の例がダメなわけではありません。

 

ですが、作られた楽しさを受け取るだけの人間になってしまうと、日々を退屈に感じやすい。

なぜなら、受け取るだけの楽しみは、誰でもいつかは飽きるから。

(テレビ、YOUTUBE、漫画、ゲームetc...)

 

楽しみを作り出すという意識がない人は、受け取っていた楽しさに飽きてしまうと、そのあとがありません。

 

「なんか面白いことないかなー?」

 

これは楽しみを受け取っているだけの人の口癖です。

 

 

そうなると日々を退屈に感じるのも当たり前のことになります。

ではどうするか。

自分で楽しさを作り出すのです。

 

知り合いを集めて飲み会を主宰する

カラオケコンテストの開催

楽器を演奏してみる

YOUTUBEに動画を投稿してみる

 

などなど。

 

毎日自分が楽しさを作り出すんだ、という意識を持っておけば、退屈することは無いと思います。

もし退屈を感じるのであれば、それは楽しみを作り出せていないということです。

 

 

 

楽しさを作り出すのは難しいことでしょうか。

僕はそうは思いません。

子供のころを思い返してください。

何もない公園で友達と何時間も遊んでいませんでしたか。

自分たちで遊びを決めて、楽しんでいましたよね。

 

あれが楽しみを作り出すという原型だと思います。

 

僕たちは昔、自分で楽しみを作り出していた。

もう一度、初心に帰って楽しみを作り出すのはいかがでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

小さい時から怒られ続けた僕が、逆に説教のコツを教える。

ぼくは小さい時から、先生や部活の顧問などに怒られまくっていました。

人一倍怒られやすい子供でした。

何故かは分かりません。

何故かはわかりませんが、他の子供なら10分くらいで終わる説教が僕の時には30分くらい続くんです。

部活のサッカーの試合で、僕が左サイドにいて、味方が右サイドでボールを取られた時も何故か僕が怒られました。

美術の時間に7.8人が立ち歩いている状態でも僕だけが怒られました。

こんな理不尽な怒られ方はレアケースですが。笑

 

ダメですね。

怒られたエピソードが次から次へと思い出される。笑

 

僕は決してグレていたわけではありません。

それどころか、大人しい、内気な子供でした。

それなのに何故あんなにも怒られたのか。

全くわかりません。

しかし、そのおかげで、うまい説教と下手な説教がしっかりと身をもって分かるようになりました。

それを解説していこうと思います。

 

 

 

下手な説教をする人の特徴

 

まず、下手な説教をする人は基本的に、自己満足のために怒ります。

誰かを正そうと思って怒るのではなく、誰かを正そうとしている自分に酔っているのです。

自分よりも立場が下の人に向かって、その人自身の理論を押し付けます。

また、自分に酔っているだけなので、下の人の意見は聞きません。たとえ意見を聞いたとしても頭ごなしに批判しておしまいです。

そうなると、僕がよく怒られていた理由が分かります。

内気で反論してこない子供は格好の的だった訳ですね。

まぁ、そんなことは置いといて。

 

で、ここが重要なのですが、

怒られている人は上のことを簡単に察します。

自分の意見を聞いてもらえず、一方的に理論を押し付けられると、話を聞こうという気にはなりません。

次第に心を閉ざしていきます。

こうして、自分に酔って話しまくる上の人と、話を聞いているふりだけしている下の人の図形が完成します。

 

こうなればただの時間の無駄ですよね。

 

 

説教がうまい人の特徴

 

説教がうまい人は真逆です。

まず第一に下の人のことを考えてくれます。

そして話を聞いてくれます。

下の人がたとえどんな意見を言ったとしても、完全に否定することはせず、ある一定の理解を示してくれます。

その上で、あくまで自分の考えとして意見を言ってくれるのです。

これこそ、説教がうまい人の特徴です。

 

 

 

 

偉い人が言いました。

「説教とは、ただの価値観の押しつけだ」と。

実に的を射ていると思います。

「自分がどんなに偉い人であっても、あくまで説教というのは、価値観の押し付けに過ぎない。」

説教をする時は、このことをしっかりと胸に刻んで欲しいです。

 

 

 

 

今の時代に生まれてよかった

本当に今の時代に生まれてよかった。

心からそう思います。

 

戦争をしていた時代のように命の危険をリアルに感じることもないですし、家柄によって一生の生き方を決められているわけでもありません。

命を脅かされることがほとんどなく、生き方も自分で決めることができる。

当たり前のように見えて実はすごいことですよね。

 

僕が特に良いと感じることはやっぱり生き方を自分で選べるということです。

 

町中のいたるところで、さまざまな価値観が飛び交っている今、「幸せの定義」っていうのがものすごくあいまいになっていると思います。

一昔前なら、大企業に入って、一軒家を買って、子供に恵まれて、、、という幸せのロールモデルがありましたが、いまではそういうのはあまり聞きません。

そういうのは時代遅れになったのでしょう。

 

今は、個人が「自分なりの幸せ」を自分でつかみ取りに行く時代。

「世間一般の幸せ」を漠然と追い求める必要はない。

自分が、心からやりたいことをやること。

それが「自分なりの幸せ」をつかみ取りに行くことだと思います。

 

当然ですが、「自分なりの幸せ」ロールモデルというのは存在しません。

世界に何十億の人がいても、自分と同じ人はいないので。

だから、「自分なりの幸せ」を追い求めることは、決して楽なことではありません。

学校の教育のように、「こうしとけばいいんでしょ?」というものがないですから。

誰も教えてはくれない。

誰も他人の幸せの条件とかわからないですから。

 

 

いろいろ試行錯誤していく必要があります。

たくさん頭を使う必要があります。

まずは、いろんなことに挑戦してみる。

そして「やっぱりこれじゃない。」ということをたくさん経験する。

そしたらいつか、本当に大事なものが見えてくると思います。

 

時には周りから批判を受けることも多いと思います。

「自分なりの幸せ」を追い求めると、時として、周りの期待を裏切る結果になることもあります。

他人が期待する自分と、自分が期待する自分の間に乖離が生まれることは多い。

その時、どうするか。

人によるとは思いますが、僕なら、自分が本当にやりたいことを選びます。

自分の意思を殺して「他人に都合のいい自分」にはなりたくない。

 

今はまだ僕も試行錯誤の段階ですが、いつか必ず、「自分なりの幸せ」を掴みます。

 

ちなみに、↓の本には、「自分なりの幸せ」を追い求めるための本質的なことが書いてあっておススメです。

 

 

「頭のいい人」はシンプルに生きる―「快適生活」の方法

「頭のいい人」はシンプルに生きる―「快適生活」の方法