カードゲームで例える人は環境しだいってこと
カードゲームやったことありますか?
僕は結構カードゲーム昔から好きで、友達とよく集まっては新しいデッキを組んで戦っていました。
少し前まではShadowverseというスマホのカードゲームもやっていて、カードゲームには割と親しんだ方だと思います。
んで、今回はカードゲームのカードと人間って似てるなーって思ったので、どう似てるかとかを書きたいと思います。
まぁ結論から言うと、カードゲームのカードも人間も環境しだいで評価が変わるってことです。
どういうことか。軽く説明します。
例えばAというレアカードがあったとします。Aというカードはすごく強い効果を持っているのですが、効果を発動すると同時に手札を全て捨ててしまうというデメリット効果があります。
カードゲームやってる人ならわかると思うのですが、手札を全て捨ててしまうというのはものすごく不利になる能力ですよね。
でもここに例えばBというカードがあったとします。Bの効果は「自分はカードの効果によって手札を捨てなくて良い」です。
このBというカードがあれば、Aはものすごく使いやすくなりますよね。
逆にBというカードが存在しなければAの評価は落ちると思います。
これが環境しだいで評価が変わることの典型例です。Bというカードがある環境、ない環境でAの評価は変わります。
人間も同じではないでしょうか。素晴らしい長所があったとしても、その長所を十分に生かすことの出来る環境がないと、評価は低くなってしまいます。
誰にでも長所と短所は存在します。長所をできるだけ伸ばすことができて、短所をできるだけカバーしてもらえるような環境に身を置くこと。
それが自分の評価をあげるもっとも確実な方法だと思います。
好きなことをずっと好きでいられますか
好きなことをずっと好きでいるってとても難しいと思います。
人であっても趣味であっても。
最初は他のことを考えられないほど好きなものでも、数ヶ月、数年経つとどうでしょうか。
初期とおなじ情熱を持っている人は少ないのではないでしょうか。
特に人に対してだと難しいですよね。
たとえば付き合っている人がいるとして、何ヶ月か経った後に昔ほど好きではなくなってしまった。
その状態で付き合い続けるのは精神的にも辛いものがあります。
自分がすごく不誠実な人間だと感じるんですよね。
まぁなんでこんなことを書いているかと言うと、今現在僕がこの状態だからです。(笑)
正確には好きじゃなくなった訳ではなくて、本当に好きなのかどうかが分からなくなってしまったんですが、、
この状態って結構メンタルにダメージが来ますよ(笑)
人から好かれることって難しいことですけど、人をずっと大好きでいるのはもっと難しいですよね。
好きじゃないなら別れればいいという意見もあると思いますが、人間関係ってそんなに合理的、理性的に割り切れるものではないと思ってます。
付き合いたての時は、ずっと大好きでいる自信があったのに数ヶ月経ってみるとあの情熱を見失ってしまってます。
こんな感じでただいま少しの自己嫌悪に陥っています。(笑)
特にオチのない文章となってしまいましたね、、(笑)
自分を知っていくこと
僕は最近、「自分を知る」ことに力を注いでます。
「自分を知る」ってどういうことかと言うと、例えば自分は何が好きで、何が嫌いか、何が得意で何が苦手か、どういうときに快適に感じて、どういうときに怒るのか。
まぁ、自分の能力とか感情とかですかね。
こういうのを知って何になるかというと、すごく漠然とした言い方になりますが、「戦うべき場所と戦い方が分かる」んです。
具体的な話をすると、僕は今、居酒屋でバイトしています。
バイト仲間の間では、僕が突出して優れている部分はありません。
リーダーシップもないし、会話の機転が利くわけでもなく、仕事を覚えるのも速くありません。
あと、同時に色んなことをこなすのが死ぬほど苦手なので、忙しくなるとすぐにパンクします。
こうしてみると、本当に僕は居酒屋のバイト向いてないですね。(笑)
でもまぁなんだかんだ楽しく続けることが出来てるので、いいのかなとは思いますが。
んで、一見何もいいところがないように思いますが、こんな僕でも一つや二つ役に立ってることがあるんじゃないかなと、思うわけです。
例えば僕はいじられキャラです。
初対面のオッサンとかにも結構いじられます。
これって案外僕の強みじゃないかな、と思うわけです。
リーダーシップとかはないけど、率先していじられることで場の空気をなごませることは出来る。
リーダーとしてグイグイ引っ張っていくことは出来ません。僕には無理です。それはもう受け入れました。
そんなことはできる人に任せておけばいいんです。
いじられて、場を明るくすることは、少なくともバイト仲間の間では僕が一番だと思います。
そりゃ、出川哲朗がバイトに来たら勝てないですけどね(笑)
まぁそんな感じで、自分を客観的に見ることで自分というものを発見していくんです。
ここで僕がムキになってリーダーシップをとろうとしても、空回りするだけだと思います。
僕はリーダーシップで戦うべきではないんです。戦うなら、道化として戦うべきなんです。
そういうことに気づくことで、戦うべき場所を見つけていくことが大切なのかな、と最近は思っています。
敵を知り、己を知らば百戦危うからず。
宮本武蔵の言葉です。
全てはこの言葉に尽きると思いますね。
政府のことを「学校の先生」だと思っていませんか?
先日、家の近くでデモがあり、このような声が聞こえてきました。
「原発の事故は政府の責任!
私たちを苦しめるな!総理は辞職しろ!」
細かいところは忘れましたが、だいたいこのような感じの意見でした。
政府の責任。
そうですか。
なんですかね、この違和感。
「政府が悪い。俺達はその被害者だ。」
と言っている気がします。
まるで、政府が一方的に私たちを苦しめている印象を受けました。
そして、悪いのはすべて政府だと。
もしそうなら、それはおかしくないですかね。
日本が民主主義国家である以上、政府『だけ』の責任って有り得ないと思います。
その政府を選んだのは、間違いなく国民なのですから。
国民にも責任があるはずです。
ですが、デモを見ていると、どうもそういう感じはありません。
何故なのでしょうか。
もしかしたら、デモを行っていた人のような、国民は被害者だと考えている人は、政府は学校の先生のようなものだと考えているのではないでしょうか。
感覚としては、先生と生徒が向き合っているイメージです。
生徒(国民)は、座っていれば先生(政府)から利益を受け取ることが出来る。
生徒(国民)は、特別なことをする必要はありません。
座っていれば、勝手に授業(行政)が進んでいくのですから。
しかし、そのイメージは間違っています。
政府とは、国民のリーダーです。
リーダー(政府)とは、人を引っ張っていく存在です。
引っ張っていくということは、リーダー(政府)とその仲間(国民)は同じ方向を向いて、進む必要があります。
リーダー(政府)だけが動くことはできません。
仲間(国民)の一人ひとりがリーダー(政府)とともに動こうと決意して初めて、一丸となって動くことができます。
政治とは本来、そういうものだと思います。
国民がずっと受け身であり、批判を続けるだけでは、現状は変わりません。
好き嫌いはあると思いますが、政治家の人たちも、僕達と同じ日本に住む仲間です。
今の日本の政治に足りていないのは、「仲間意識」ではないでしょうか。
政治家を敵だと認識していると、いつまでも前には進めません。
日本をよりよくする仲間だと思うことが大切だと思います。
ありがとうございました。
受験勉強ではプロセスなんかどうでもいいんですよ
僕が高校三年生の時、通っていた予備校の先生がこんなことを言っていました。
「結果とプロセスなら、プロセスの方が大事だ。結果ばかり求めると、人はずるいことをする。
だから、結果よりも、どれだけ頑張ったかを重視してほしい。」
と。
さて、これは正しいのでしょうか?
たしかに、結果ばかりを求めると、不正してしまうことがあるかもしれません。
カンニングだとか、替え玉受験とか。
そのような事件は昔から絶えません。
しかし、だからといって、「プロセスの方が大事」とはなりません。
はっきりいいます。
結果の方が大事です。
比べること自体おかしな話です。
結果を出すから評価される。
受験勉強は競争ですから、結果を出すことに意味があります。
「結果はダメだったけど、頑張ったね」
っていうのは、ただの慰めにしかなりません。
受験生は、プロセスを気にする必要はありません。
なぜなら、結果さえ出せば、周りの人は勝手にプロセスを評価してくれるからです。
結果を出した人は、その人の行ったプロセスから、成功した要因を探してもらえます。
「この人はこんなことをやっていた!
だから結果を出せたんだ!」
と解釈されます。
一方、結果を出せなかった人は、プロセスから、失敗した要因を探されます。
「この人の失敗した原因は、こんなことをやっていたからだ。」
でも実は、結果を出せなかった方が、結果を出した方よりも成功する要因は多かった、なんてことはよくあります。
それでも評価されるのは、結果を出した方です。
そんなもんです。
ですから、受験生は結果に貪欲になってほしいと思います。
(もちろん、不正はやめておいた方がいいですよ。
リスクとリターンが割にあってないので。)
働くことの楽しさを知っている人、知らない人のたった一つの違い
働くことを、単なるお金を稼ぐ手段として見ていませんか?
働くことは、自分の労働力を売って、対価としてお金をもらうだけのものだと感じている人は多いと思います。
もし、あなたがそう感じているのであれば、あなたは「働くことの楽しさを知らない人」ということになります。
「働くことの楽しさを知っている人」は、そうは考えません。
彼らは働くことを、社会への貢献だと考えます。
「自分が働くことによって、誰かの役に立っている。」
そう考えています。
そして、この考え方の違いが、働くことが楽しいと感じるかどうかを左右するのです。
僕が以前、とある飲食店でバイトしていた時の話です。
その飲食店にはいくつかの店舗があるのですが、そのうちの一つの店舗で人手が足りなくなりました。
そこで僕がヘルプとしてその店舗に向かったのです。
僕はその店でいつも通り働きました。
そして業務が終わって帰ろうとしたところで、そこの店長が言った言葉がこれです。
「本当にありがとう!助かったよ!!」
僕はびっくりしてしまいました。
感謝されるとは思っていなかったからです。
僕の労働は、ただ単にお金に変わるものだとばかり思っていました。
でも違った。
僕の労働は、その店舗の店長の役に立っていたのです。
当たり前の話かもしれません。
ですが、それを生で実感した時は、ものすごく感動しました。
自分が誰かの役に立っている。
「働くことの楽しさ」を知ったのはその瞬間です。
労働とは、「自分が誰かの役に立っている。」ということを実感させてくれるものです。
働くことは楽しいことだ。
それを大学生のうちに実感することができたのは、本当に幸運だったと思います。
マズローの欲求の五段階説を見てもらえれば分かるように、労働は、一番上の自己実現の欲求(貢献)を満たしてくれます。
「自分は誰かに貢献している」という意識をもって働いている人は、楽しく働くことができます。
そしてそれが働くことが楽しくないと感じている人との違いです。
どうせ仕事をするなら楽しんでやりたいですよね。
最後に仕事に関する名言を一つ。
仕事が楽しみなら人生は極楽だ。
仕事が義務なら人生は地獄だ。
_ゴーリキー(ロシアの作家)
ありがとうございました。
東大目指しとけば、地方国立には受かることが出来るって考えている人、甘いです。
「東大目指しておけば、地方国立には受かることが出来る」
みたいな事を当たり前とばかりに言う人がいるんですよ。
そして彼らは、「とりあえず」東大を目指す。
彼らは甘いです。
現実はそんなに甘くない。
とはいえ、彼らの言っていることは、間違っている訳ではありません。
たしかに、本気で東大を狙っていれば、地方国立に受かることは出来るでしょう。
本気で狙っていれば。
「とりあえず東大目指しておけば、地方国立には受かることが出来るやん?」
この言葉を彼らが発する時、彼らは本気で東大を狙っているでしょうか?
違いますよね。
彼らは地方国立に受かることが出来れば満足なのです。
東大を目指すとは言っておきながら、本心では東大は狙っていない。
それだったら、言うだけ無駄です。
本気で東大狙っている人は、地方国立の事なんか考えません。
東大に受かることだけを考えています。
そんな本気な人と、地方国立に受かることが出来れば満足な人。
同じ土俵にすら立てていないことは明白です。
「東大目指しておけば、地方国立には受かることが出来る」
これが当てはまるのは、本気で東大を目指した人です。
皮肉なことに、これを口に出した人には当てはまりません。
僕の友達に、
「インターハイ出場を目標にしておけば、地方大会には出場できる」
という言葉を言った人がいるんですよ。
結局彼も、本気でインターハイを目指している訳ではありませんでした。
そんな彼の結果は…想像の通りです。
本気で狙っていないものを目標にするくらいなら、レベルは下げても本気で狙っているものを目標にすべきです。
ありがとうございました。